煕子(ヒロ子)は、何の夢も持たずに生きていた。
1988年、ヒロ子・・・若干27歳の時、引き継いだ洋画ビデオメーカーの社長に就任する。
赤字会社をなんとか年商6億円まで築くが、やがて映画権利の高騰や資金不足で、あえなく会社を休眠会社として企業に勤める。その会社の初の女性部長として入社したが、女性の地位がまだ確立されてない社内で賛同者がいない中、ざまざまな困難に遭う。しかし、持ち前の明るさとパワーでどんどん仕事をこなし、ハリウッド有名女優や監督と会うチャンスに恵まれ、人脈も広げていくのだった。
その後その会社を退職し、日米間を行き来しながら、大手企業のCMコーディネイト、日本の企業のコンサルタント、映画制作のコーディネイトをする。
しかし、日本企業からの3千万円の支払いが当日ドタキャンになったり、邦画大作プロジェクトのアシスタントプロデューサーとなって喜んだのも束の間その映画も制作中止になったり、仕事をしてもお金がもらえなかったり、雇ったテレビや映画プロデューサーに騙されたりと散々な目に遭い、全てを失うのだった。
それでも、ヒロ子はめげない。
徐々に、映画プロデューサーになるという夢が確信となり、有名女流作家の原作権を取得し、その映画化に奔走する。女性監督に会う為に日本から南米まで行き来をしたり、カンヌ国際映画祭やベルリン国際映画祭へプロデューサーとして企画の売り込みへ出向き、資金集めから脚本開発、そして撮影まで6年の月日をかけて映画化する。
さまざまな困難を乗り越え、映画は完成し、国際映画祭で大絶賛され作品賞や脚本賞、主演女優賞等さまざまな賞を受賞する。
涙ながらに受賞の喜びをスピーチをするヒロ子。
夢が叶った瞬間だ。
そして、全世界の劇場で公開され、大成功を収める。また、女性の映画人を支えたことも評価され、プロデューサーとして着実に確立してくのだった。
その後もたくさんの名画をプロデュースするヒロ子だった。
しかし、ヒロ子の夢はそれだけでは終わらなかった。
やがて、LoveWebb.comという映画制作や女性をサポートしていくサイトを立ち上げ、女性が制作したい映画をサポートする傍ら、さまざまな面で女性達のサポートも行う。
そして、ヒロ子は愛をもって全ての人に接し、一人でも多くの人達が平和で幸せに生きられる環境を作る為のメッセージとして、更に素晴らしい映画を世に出し続けるのだった。
夢は、決して夢ではない・・現実だ。
それは、困難にもめげず、強い信念を持ってその夢を追い続けることで、現実となる。
何になりたいのか自分探しを続けていたヒロ子は、その時、プロデューサーが天職であることを知るのだった。
次回に続く…

